室町幕府

朝からちょっと勉強。今日は日本史について。室町幕府というと足利氏の治世で、三代将軍義満が南北朝を統一し、花御所をたてたというのが大まかなイメージで、さらに、応仁の乱を経て、戦国時代へ突入し、伊達政宗織田信長武田信玄などの諸大名が台頭してくるぐらいまでぐらいは知っています。それ以上のことを勉強します。

鎌倉幕府滅亡までの流れ>
天皇親政を理想とする後醍醐天皇による倒幕計画→正中の変、元弘の変の失敗→後醍醐天皇、流される→楠木、護良による挙兵で畿内騒乱→足利尊氏新田義貞の寝返り→鎌倉幕府滅亡

建武の新政失敗まで流れ1>
後醍醐天皇、帰京し政治改革に着手→天皇みずから裁断する「記録所」「恩賞方」の復活、「雑訴決断所」、「武者所」の新設、さらに通貨の発行などを計画→それまでの法慣習を無視した政治と、武家を軽んじ公家を重んじる政策に武士たちの反感→新政に失望した武士たちによる「足利尊氏」への幕府再建への期待

法慣習無視・・・領地の安堵(つまり公認権?)を天皇の論旨によるなど、天皇の裁断を絶対としたこと。
武家を軽んじる・・・国司・守護をおきながら、守護の権限を弱めて、地方行政権の多くを国字に与える。

建武の新政失敗まで流れ2>
中先代の乱→尊氏、関東にくだる→尊氏、半期をひるかえし、天皇軍と戦い、京都を制圧し、光明天皇を擁立→後醍醐天皇、吉野へ逃亡→建武の新政の終焉

中先代の乱・・・北条時行らが鎌倉幕府の復活を目指し、建武政権に対しておこした反乱。時行は尊氏の弟直義をやぶり、鎌倉をおとすにいたる。これに対し尊氏は後醍醐天皇の制止を無視して挙兵し、三河で逃亡した直義と合流後、時行軍を連破。鎌倉を奪還。乱後、尊氏、直義兄弟は関東にとどまり、建武にそむくことになる。

南北朝時代
吉野にうつった後醍醐天皇南朝を立てる→尊氏により室町幕府成立→京都の北朝、吉野の南朝(1336)→北朝側の分裂により長期化→観応の擾乱→地位を強化した三代将軍義満により統一の実現

北朝の分裂・・・鎌倉時代の分割相続から、単独相続へうつったため、武士団が分裂・対立をひきおこしたため。

観応の擾乱・・・室町幕府の内部抗争。初期の室町幕府では、尊氏と直義が兄弟で権限を分割していた。この二頭政治が二つの党派を生む。
・尊氏執事「高師直(こうのもろなお)」と、足利直義の対立。
高師直の勢力拡大に脅威をいだいた直義は、直冬を派遣し高師直妥当をはかる。しかし、高師直はこれをかわし、尊氏にせまり直義を引退させる。これを機に、直義派は南朝方について高師直打倒をめざし、京都占領。両派の全面戦争へ。直義派により高師直一族が殺されるなど、直義派に優勢にすすみ、尊氏・直義で一度は和睦が成立。直義は幕府政治に復帰する。しかし、尊氏、義詮が直義を挟み撃ちにでたため、直義は京都を脱出し、鎌倉へ逃亡。今度は尊氏が南朝方につき、直義討伐にいたる。その後も直義派による反抗はつづき、しばらく幕府は不安定な状態に。

要するに、尊氏とその執権高師直と、直義派による抗争ということですね。これが南北朝時代を長引かす一因となったようです。

南北朝の合一・・・義満のころになると、動乱はおさまり、幕府は安定期を迎えていたため、義満は南北朝の合体を図るべく南朝と交渉。その結果、後亀山天皇が義満の呼びかけに応じる形で京都へかえり、北朝後小松天皇に譲位することで無事南北朝は合一されました。

さあ、これからが本格的に室町幕府の話なんですが、ちょっと疲れたのでまずはここまで。ちなみに室町幕府は財政基盤がよわかったり、守護が大きなちからをもっていたり、強力な政府というわけではなかったようです。


鎌倉幕府の滅亡は後醍醐天皇からはじまる
鎌倉幕府を滅ぼしたのは足利尊氏
後醍醐天皇の政治(建武の新政)には、武士たちによる不満
・武士の不満に応じるかたちで足利尊氏たちあがる
中先代の乱が関東へ下るきっかけとなる
足利尊氏一気に建武政権を打倒するが、後醍醐天皇をのがしたため南北朝時代
南北朝が長引いた一因は北朝の内部闘争
南北朝の最後は平和的な和睦